プロヴディフ (Obshtina Plovdiv)
プロヴディフは新石器時代に遡る、6千年に及ぶ歴史を有しており、紀元前4千年ごろの居住跡が見つかっている.
街にはプロヴディフ基礎自治体および隣接するロドピ基礎自治体、マリツァ基礎自治体の行政府が置かれている. プロヴディフはプロヴディフ州の州都であり、ブルガリアのNUTS-2の地域区分であるユジェン・ツェントラレン(南中部)の中心都市、北トラキア地方で最大の都市であり、国境を超えた歴史的なトラキア地方の中心都市である. 街は経済、交通、文化および教育の重要拠点となっている. プロヴディフは、国際プロヴディフ・フェア(International Fair Plovdiv)、国際演劇フェスティバル「スツェナ・ナ・クルストルト」(Сцена на кръстопът)、テレビ・フェスティバル「ズラトナタ・ラクラ」(Златната ракла)などの、国際的な文化的・経済的催し物の主催地となっている.
歴史的なギリシャ語呼称である「フィリッポポリス」の名でも知られ、古代ローマに征服されローマ都市となる前はトラキア人が居住していた. 中世でも、その戦略的重要性は高く、東ローマ帝国とブルガリア帝国との間で度々支配者が入れ替わった. 14世紀にはオスマン帝国の手にわたる. 1878年には、オスマン帝国の一部として新設された東ルメリ自治州の州都となり、1885年のブルガリア統一によってブルガリア公国の一部となった.
プロヴディフは、マリツァ川の両岸に広がるプロヴディフ平原の南部に位置している. 歴史的に、7つの閃長岩の丘の上に築かれ、そこから発達してきた. 7つある丘は大きいもので250メートルの高さがある. これらの丘にちなんで、プロヴディフは「7つの丘の街」と呼ばれる. ローマ劇場、円形競技場、地下遺跡エイレーネーをはじめとして、多くの古代遺跡が街中にみられる.
プロヴディフは長い歴史の中で様々な名前で呼ばれてきた. はじめトラキア人の居住地であった頃は「エウモルピアス」(Eumolpias)と呼ばれていた. 紀元前342年-341年にかけてピリッポス2世がこの地域を征服した後、その呼称は「フィリッポポリス」(ギリシャ語:Φιλιππούπολις / Philippoupolis)と改められた. 後にはこれをトラキア語に訳した「プルプ=デヴァ」(Pulpu-deva)も用いられるようになった. やがてローマ人がこの地を手にすると、街は「3つの丘」を意味する「トリモンティウム」(ラテン語:Trimontium)へと改められた.
中世には、東ローマ帝国の統治下では「フィリッポポリス」と呼ばれ、ブルガリア帝国の統治下では、以前のトラキア語呼称を古代ブルガリア語化して「プルディン」(Пълдин / Paldin)あるいは「プルヴディフ」(Плъвдив / Plavdiv)と呼ばれるようになった. オスマン帝国の統治下では、「フィリッポポリス」をトルコ語化して「フィリベ」(Filibe)と呼ばれた. 20世紀初頭の西ヨーロッパでは再び「フィリッポポリス」の名で知られるようになった.
小惑星・3860 プロヴディフはこの街にちなんで命名された. この小惑星はブルガリア人の天文学者ヴィオレタ・イヴァノヴァ(Violeta G. Ivanova)によって1986年8月8日に発見された. サウス・シェトランド諸島・リヴィングストン島(Livingston Island)のプロヴディフ峰(Plovdiv Peak)も、プロヴディフにちなんで命名されている.